七社の一覧
| 社号 | 所在地 | 創建(記録・伝承) | 建てた人・きっかけ |
|---|---|---|---|
| 晴明神社 | 京都市上京区・堀川一条 | 寛弘四年(1007年) | 一条天皇の命。晴明公の屋敷跡 |
| 安倍晴明神社 | 大阪市阿倍野区 | 寛弘四年(1007年) | 花山法皇の命。生誕伝承地 |
| 晴明神社(名古屋) | 名古屋市千種区清明山 | 安永七年(1778年) | 蝮に苦しんだ村人が住居跡に勧請 |
| 晴明神社(大垣) | 大垣市上石津町下山 | 寛政年間(1789〜1801年) | 祈石の伝説を受け村人が建立(案内板の文面として伝えられる内容) |
| 晴明神社(岡崎・本町) | 岡崎市本町通 | 寛政十二年(1800年) | 材木町の阿部理八が旧居跡に祠 |
| 晴明神社(岡崎・唐沢) | 岡崎市唐沢町 | 弘化三年(1846年) | 材木町の安倍理八が五輪石を納め祀る |
| 晴明神社(敦賀) | 敦賀市相生町 | 明治十一年(1878年)社号改称 ※ | 正暦年間の晴明公滞在伝承。旧跡は保食神の神祠 |
※ 敦賀の社は、神祠としての旧跡は古く、「晴明神社」の社号を名乗ったのが明治十一年。創建年ではなく改称年である点に注意。
一、京都・晴明神社(寛弘四年・1007年)
晴明信仰の中心。寛弘二年(1005年)に八十五歳で世を去った晴明公の偉業を讃え、一条天皇の命により、屋敷跡であるこの地に社殿が設けられた。創建当時の社域は東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通に至る広大なものだったが、応仁の乱と秀吉の都市改造を経て縮小し、昭和二十五年(1950年)に堀川通に面する境内地の拡張が実現した。平成十五年(2003年)には御鎮座壱千年祭。
社紋の「晴明桔梗」——五芒星——は、晴明公が創始したと伝わる祈祷の呪符で、木・火・土・金・水の五行をかたどる。境内には晴明公が念力で湧かせたという晴明井、先代の一条戻橋の欄干親柱で再現した旧一條戻橋、厄除桃が並ぶ。例祭「晴明祭」は九月の秋分の日を中心に、宵宮祭と神幸祭が営まれる。
二、大阪・安倍晴明神社(寛弘四年・1007年)
京都と同じ寛弘四年の創建を伝えるが、命じた人物が違う。社伝『晴明宮御社伝書』によれば、晴明公の死を惜しんだ花山法皇の命により、生誕の地とされる阿倍野に建てられた。阿倍王子神社の境外末社で、境内には江戸時代に神南辺大道心が寄進した「安倍晴明誕生地」の碑、『摂津名所図会大成』にも描かれた産湯井の跡、鎮石、葛之葉霊狐の飛来像が並ぶ。
土御門家との縁も深い。宝暦四年(1754年)の晴明公七百五十年祭にあたって土御門家が示した「晴明霊社旧地之次第」は七箇所の旧跡を定め、当社を生誕地として「第二之旧跡」とした。昭和二十一年(1946年)に天社土御門神道本庁が再興された際、阿倍王子神社宮司が設立時の主管者三名の一人に名を連ねている。
京都と大阪、同じ年に建った二つの「晴明の社」がどう違うかは、別の読み物で詳しく比べている。
三、名古屋・晴明神社(安永七年・1778年)
平安の二社から七百七十年を隔てて、次に「晴明神社」が建つのは尾張である。社の由緒書は、寛和年間(986〜987年)に晴明公が尾張国狩津荘上野邑に来住し、村に蝮や蛇が多いのを見て加持を行い封じたと伝える。ところがその後ふたたび蝮が現れたため、村人は「往古、安倍晴明の住居跡なり」と伝わる松の木の下に標木を立て、安永七年(1778年)、晴明公の神霊を勧請した——これが当地の社の起こりである。
「清明山」の地名にも晴明公の名が残る。近くの上野天満宮の由緒は、晴明公の一族が寛和二年(986年)の花山天皇退位の政変ののちこの地に移り住んだと伝えており、都を離れた陰陽師の一族の伝承が、この丘の二つの社に分かち持たれている。明治初期には京都の晴明神社から正式に分霊を受けた。現在は名古屋市の「恋の三社めぐり」の一社。
四、大垣・晴明神社(寛政年間・1789〜1801年)
岐阜県大垣市上石津町下山の集落に鎮座する。岐阜県神社庁の記録は「古老の口碑に曰く、寛政年中の創建なりと云ふ」と伝える。神社庁の神社検索で、本社の御祭神に「安倍晴明」を挙げる神社を探すと、この1件だった(2026年10月12日に確認)。
創建の経緯は、現地の案内板の文面として、次のように伝えられている。晴明公が正光寺の境内の祈石から山麓の巨岩に向かって呪文を唱え、猛獣毒蛇を鎮めてこの地方に平和が訪れたことを受け、村人が村の平和と繁栄を祈願して建てた。星詣は案内板を現地で確認しておらず、大垣市などの公的な資料でも確認できていない。晴明公が上石津に来た記録は、見つかっていない。主祭神は、神社庁の記載では建沼河別命と安倍晴明。祈石は正光寺の境内にあり、社は同町下山2730で、地図の徒歩ルートで約130m離れている。
五、岡崎・晴明神社(本町通/寛政十二年・1800年)
岡崎の城下町には晴明公の社が二つある。先に建ったのが本町通の社で、「岡崎の晴明様」として遠近の信仰を集めてきた。岡崎市観光協会「おかまいり」十二社めぐりの第七番札所。
由緒によれば、諸国を巡っていた晴明公がこの地に居を構え、神夢によって掘った井戸の霊水で多くの人を救った。のちに旧居跡には晴明塚が作られ、井戸は晴明井として保存された。寛政十二年(1800年)九月三十日、材木町の阿部理八が晴明公の遺徳を偲んで祠を建て、五輪石の一部を納めたのが起源である。天保三年(1832年)の岡崎城下の大火では晴明神社だけが焼け残ったと伝えられ、昭和二十年(1945年)の岡崎空襲でも御神体は菅生神社に遷して難を逃れた。九月十四日が晴明祭例大祭。周辺の商店街は「晴明ストリート」を名乗る。
六、岡崎・晴明神社(唐沢町/弘化三年・1846年)
本町の社から四十六年後、同じ材木町に住んだ安倍理八が、五輪石の一部を納めて晴明公の霊を祀ったのが唐沢の社の起源である。晴明公が諸国遊歴の折に唐沢に居住したとの伝承があり、その地は「晴明屋敷」と呼ばれた。今も手水鉢と伝える鉢が残り、井戸もあって「晴明井」と称し、岡崎の七つ井の一つとされる。
晴明公の住居跡と晴明井の伝承が本町と唐沢の双方に残り、五輪石を分け持つ二つの社が城下に並び立つ形で、岡崎の晴明信仰は受け継がれてきた。社殿は唐沢公民館の建物の中にあり、外から拝む形になる。
七、敦賀・晴明神社(社号改称は明治十一年・1878年)
七社のうち最も新しく「晴明神社」を名乗ったのが敦賀の社だが、伝承の年代は最も古い部類に入る。境内の由緒書によれば、この地は往古より保食神を祀る神祠の旧跡で、正暦年間(990〜994年)、晴明公が当地に住んで天文・地文の研究を重ね、日夜この神祠に参詣したと伝わる。天文の奥義を究めるために供したという霊石が、御神体の「祈念石」である。生年を延喜二十一年(921年)とする通説に従えば、正暦年間の晴明公は七十歳前後、晩年にあたる。
明治十一年(1878年)に社号を晴明神社と改め、大正五年(1916年)に現在地へ遷座した。祭壇の床下の小窓から祈念石を覗き、賽銭を投げ入れて石の上に載れば願いが通じるという、他に例のない参拝の作法で知られる。金ヶ崎の戦い、信長と朝倉の戦火、敦賀空襲のいずれにも焼かれなかったと伝わることから、火除け・防火の神として崇敬されてきた。
なぜ敦賀だったのか。敦賀観光協会は、大陸との交易の玄関口として栄えた港町に、陰陽五行説の本場である大陸の情報が絶えず届いたことを有力な理由に挙げる。ただし晴明公の敦賀滞在は当時の記録で確かめられるものではなく、社と町に伝わる伝承である。
七社が語ること
創建年代を並べると、はっきりした断層がある。平安の二社(京都・大阪)は朝廷が命じた社で、晴明公の死の直後に建った。江戸後期の五社(名古屋・大垣・岡崎二社)と明治の一社(敦賀)は、いずれも土地の人々が建てた社で、晴明公の没後七百年から八百年を経て、各地に残る「晴明公がここに住んだ」「ここで何かを鎮めた」という伝承を根に持つ。
この五社が集中する寛政から弘化にかけての半世紀は、晴明公の伝承が民間で広く語られた時期と重なる。岡崎の二社が同じ材木町の理八という人物によって、五輪石を分け持つ形で建てられたことは、ひとりの篤志家が地域の晴明信仰を形にした例として興味深い。大垣の社は、祈石の伝説を受けて建てられたと現地の案内板の文面として伝えられるが、晴明公が上石津に来た記録は見つかっていない。
「晴明神社」を名乗らないが晴明公を祀る社はほかにも多い。福井市の木田神社は境内に晴明公を祀る晴明神社を持ち、名古屋の上野天満宮は晴明公の一族が創建したと伝える。それらを含めた五十四のゆかりの地は、地域から探すから辿ることができる。