結論:最後の土御門子爵として家を継ぎ、天社土御門神道の管長を務めた
- 人物:大正9年(1920)7月18日生まれ。子爵土御門晴善の二男で、初名は允光。
- 家督:兄・熙光の死去を受け、昭和19年(1944)7月に子爵を襲爵。昭和22年(1947)の華族制度廃止まで、土御門家で最後に爵位を持った当主だった。
- 家学:戦後の天社土御門神道の再興に加わり、昭和29年(1954)の宗教法人化にあたって管長に就いた。
- 晴明との関係:『昭和新修華族家系大成』の代数に従えば、晴明から数えて39代目の当主にあたる。ただし父・晴善は三室戸家からの養子で、家系大成の範囲では晴明との血縁はたどれない。
土御門允光から高倉範忠、そして土御門範忠へ──兄の死と家督(1920–1944)
範忠の父・土御門晴善は、三室戸和光の三男として生まれ、土御門家に入って大正14年(1925)に家督を継いだ人です(『昭和新修華族家系大成』)。範忠はその二男として大正9年(1920)7月18日に生まれ、はじめ「允光」と名付けられました。学習院の名簿には「土御門允光」の名で載り、昭和16年(1941)には東京帝国大学文学部心理学科に入学しています(『東京帝国大学一覧』)。
ところが翌昭和17年(1942)6月の『華族名簿』では、彼は「高倉範忠」として、子爵高倉篤麿の嗣子に記されています。範忠の名はこのとき、高倉家の跡取りとして付いたものでした。養父となった高倉篤麿は、当時伊勢の神宮大宮司を務めていた人です(『華族名簿』昭和18年)。
一方、土御門家は兄の熙光が継いでいました。父・晴善が昭和9年(1934)に亡くなり、熙光は16歳で家督を相続します。公式由緒によれば、昭和17年(1942)には熙光を総裁として「土御門神道同門会」が結成され、明治以来途絶えていた家学を再び興そうとする動きが始まりました。しかし熙光は、昭和19年(1944)5月、26歳で世を去ります。
同年7月17日の官報は、「故子爵土御門凞光家督相續人 從五位 土御門範忠」に襲爵を命じたことを伝えています。高倉家との養子縁組は解かれ、範忠は生家に戻って土御門家を継ぎました(家系大成は「高倉篤麿養子(離)」「昭和19年7月承」と記します)。その2か月後の9月、範忠は東京帝国大学を卒業しています。戦時下の繰り上げ卒業で、在学はおよそ3年でした。
最後の土御門子爵──襲爵から華族制度の廃止まで(1944–1947)
範忠が子爵だった期間は、3年足らずです。昭和22年(1947)5月3日に施行された日本国憲法は「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定め、華族制度は廃止されました。明治に華族に列した土御門家にとって、範忠は爵位を持った最後の当主になりました。
天社土御門神道の再興と管長として(1946–)
由緒によれば、熙光の志は範忠に引き継がれ、昭和21年(1946)5月21日、「天社土御門神道」として再興が果たされました。同じ年、土御門家に代々仕えた藤田家の37代当主・藤田乾堂(義男)が若狭から上洛し、復興に力を尽くします。昭和29年(1954)1月11日、「宗教法人天社土御門神道本庁」として文部大臣の認証を受け、管長に範忠、代表兼庁長に藤田乾堂が就きました。御神体は京都に仮安置されたのち、名田庄へ遷されたと由緒は記します。
同じ昭和29年版の『宗教家名鑑』は、範忠を天社土御門神道の「司天官」「管長」として載せています。以後も文部省の『宗教年鑑』各年版に、管長として範忠の名が続きます。宗教史家の西田長男は、範忠を管長に仰いで天社土御門神道が教派神道の一派として再建された、と記しました(『日本神道史研究』第7巻)。
管長としての範忠の姿を書き留めた人もいます。科学史家の吉田光邦は、若狭の霊場で行われた夏越祓と八朔祭を訪ね、神事を終えた直会の場面をこう記しました。
管長の土御門範忠氏、庁長の藤田義男氏二人の冠の纓に、白く夏の午後の陽に照りつける五芒星が織りだしてあるのが目についた。
吉田光邦『星の宗教』(淡交社、1970年)206頁
同書は、霊場のそばの神社に加茂・貴船・善積川上・天社泰山府君の四社が合祀され、それらが名田庄を領有した土御門家の勧請によるものだと続けています。晴明以来の星の紋が、戦後の名田庄の祭祀の場で、当主の装束に織り込まれていたことになります。
管長としての範忠の仕事が形に残るものに、暦があります。昭和48年(1973)に天社土御門神道本庁が編んだ『陰陽対照九星配置万年暦』(晴明社刊、590頁)は、範忠の校訂によるものです。天文・暦道を家業としてきた土御門家の当主が、戦後も暦の校訂に名を連ねていたことになります。
範忠の没後──管長を置かない本庁
平成7年(1995)6月刊の『宗教民俗研究』5号に載った論文は、範忠を「故土御門範忠氏(晴明三九世)」と記しています。没年を平成6年(1994)とする資料もありますが、本稿では公刊物で確認できる「1995年6月までに没」に留めます。庁長だった藤田義男も、平成7年(1995)に亡くなっています(国立国会図書館典拠)。
現在の天社土御門神道本庁は、福井県おおい町名田庄納田終に本庁を置き、藤田家が代表を務めています。
範忠をたどる地
記録に残る範忠の住まいは、東京(学生時代)、大阪(昭和29年の名鑑)、兵庫(昭和59年の家系大成)で、名田庄に住んだ記録は見当たりません。土御門家が名田庄で暮らしたのは、応仁の乱を避けた室町・戦国期の三代(有宣・有春・有脩)のことです。有宣ら三代の墓所は、いまも納田終に残っています(土御門家墓所)。
範忠の時代に名田庄とのつながりを結び直したのは、御神体の遷座でした。管長となった範忠は、名田庄の祭礼に装束を整えて臨んでいます(前述の『星の宗教』)。本庁が置かれ、祭祀が営まれている地は「天社土御門神道本庁」で紹介しています。名田庄に伝わる暦の資料は暦会館で見ることができます。
年表──土御門範忠の歩み
| 年 | できごと | 出典等級 |
|---|---|---|
| 1920(大正9) | 7月18日、土御門晴善の二男として誕生。初名は允光 | A(華族名簿・家系大成) |
| 1934(昭和9) | 父・晴善が没し、兄・熙光が家督を相続 | A(家系大成) |
| 1941(昭和16) | 東京帝国大学文学部心理学科に入学(土御門允光) | A(東京帝国大学一覧) |
| 1942(昭和17) | 6月時点で子爵高倉篤麿の嗣子「高倉範忠」。熙光を総裁に土御門神道同門会 | A(華族名簿)/A(由緒) |
| 1944(昭和19) | 5月、熙光没。7月、熙光の家督相続人として襲爵。9月、東京帝大卒業 | A(官報・家系大成・卒業生氏名録) |
| 1946(昭和21) | 5月21日、「天社土御門神道」再興 | A(由緒) |
| 1947(昭和22) | 日本国憲法施行により華族制度廃止 | A(法令) |
| 1954(昭和29) | 1月11日、宗教法人天社土御門神道本庁。管長に範忠 | A(由緒)/B(宗教家名鑑) |
| 1973(昭和48) | 『陰陽対照九星配置万年暦』を校訂 | B(書誌) |
| 〜1995(平成7) | 6月刊の論文に「故土御門範忠氏」 | B(宗教民俗研究) |