四百七十三段の石段と御本殿域
四百七十三段の石段を登った標高約五百メートルの境内に、朱塗りの社殿が並びます。御本殿域は国指定重要文化財です。
宝物殿には刀剣・古鏡・参詣曼荼羅・古文書などが常設展示されています。
熊野那智大社は、東牟婁郡那智勝浦町の那智山中腹に鎮座する熊野三山の一社で、那智の大滝への自然崇拝を起源とし、主祭神に熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を祀ります。鎌倉初期の説話集『古事談』は、安倍晴明公が俗人の身でありながら那智で千日の行を修め、毎日滝に打たれたと記し、那智山の記録『那智山滝本事』『熊野山略記』は、花山法皇の千日籠りを妨げる魔物を晴明公が岩屋に封じたと伝えます。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産です。
熊野那智大社の公式サイトによれば、主祭神の熊野夫須美大神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、大同元年(806年)の『新抄格勅符抄』に古名「熊野牟須美神」として見えます。「むす」は生成発展を意味する言葉で、「結(むすび)」の意を持つことから、かつては「結宮」と通称されました。神々は元々御瀧の近くで祀られ、約千七百年前に現在の場所へ遷ったと公式サイトは記し、那智勝浦町の公式サイトは、現在地に社殿が創建されたのは仁徳天皇の御世(317年)と伝えています。御本殿は正面五殿と左の八社殿からなり、右から第一殿 瀧宮(大己貴神)、第二殿 証誠殿(家都御子大神)、第三殿 中御前(御子速玉大神)、第四殿 西御前(熊野夫須美大神)、第五殿 若宮(天照大神)、第六殿 八社殿(天神地祇)を祀ります。他の二山と異なり御瀧の神を併せ祀るため、一柱多く神々を奉斎しているのがこの社の特徴です。
晴明公と那智の縁は、古い文献に見えます。鎌倉初期の『古事談』第六「晴明、花山天皇の前生を知る事」は、晴明公は俗人ながら那智千日の行人で、毎日一時(約二時間)滝に立って打たれた、前生も並々ならぬ大峯の行人であった、と語り起こします。続けて、花山院が在位中に頭痛を患い、雨気の折には特にひどく医療の験がなかったところ、晴明公が「前生は尊い行者で、大峯で入滅されたが、その髑髏が岩の間に落ち挟まっている。雨気には岩が太って締めつけるので痛むのだ」と申し上げ、教えられた谷底を人に見させると申し状に相違なく、髑髏を取り出したのちは頭痛が永く癒えた、と記します。また熊野那智大社に伝わる『那智山滝本事』『熊野山略記』は、晴明公が二人の式神をもって魔物たちを岩屋に狩り籠めたと記し、『参考源平盛衰記』は、花山法皇が那智に籠ったとき天狗がさまざまに妨害したので、晴明公を招いて狩籠の岩屋という所に多くの魔物を祀り置いたと伝えます。花山法皇は寛和二年(986年)に出家したのち那智で一千日(三年)の滝籠りを修め、永延二年(988年)に西国三十三所観音巡りの第一番札所を那智山青岸渡寺と定めたと那智勝浦町の公式サイトは記しており、この千日籠りを晴明公が守護したという物語が、熊野各地の晴明伝説の源になっています。
四百七十三段の石段を登った標高約五百メートルの境内に、朱塗りの社殿が並びます。御本殿域は国指定重要文化財です。
宝物殿には刀剣・古鏡・参詣曼荼羅・古文書などが常設展示されています。
境内には熊野の神の使い・八咫烏を祀る御縣彦社と八咫烏の銅像、神武東征の道案内を終えた八咫烏が姿を変えたと伝わる烏石があります。
後白河法皇御手植えと伝わる枝垂桜、奥州の藤原秀衡が持ち帰ったと伝わる秀衡桜、平重盛御手植えと伝わる樹齢八百五十年の大樟(樟霊社)が境内に立ちます。
別宮の飛瀧神社は落差百三十三メートルの那智の大滝そのものを御神体とし、晴明公が千日の滝行を修めたと伝わる滝を、お滝拝所から間近に仰ぐことができます。
大門坂の石畳を登りきった付近には、花山法皇に随行した晴明公が庵を結び、庵を晴明庵、近くの橋を晴明橋と呼んだと伝わる場所があり、晴明橋の石材の一部が残ると伝えられています。
熊野古道・大門坂(約640メートルの石畳)を歩いて登る場合は、「大門坂」バス停または大門坂駐車場(無料)から社殿まで約30〜40分です。二の滝・三の滝や那智原始林は神域のため通常は見学できません。
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最終更新:2026年10月6日