結論:同時代史料に生地の記載はない。四つの土地がそれぞれの根拠で名乗る
安倍晴明の生誕地は、平安時代の史料には記されていません。晴明公の活動は『小右記』など同時代の日記に見えますが、どこで生まれたかを記した記録は残っていません。生誕地として今日語られる土地は、いずれも後世の社伝・寺伝・地誌に依るものです。
星詣が収載している範囲で、生誕地を伝える土地は四つあります。
- 大阪・阿倍野──安倍晴明神社の社伝『晴明宮御社伝書』。阿倍氏の本拠地に建つ社
- 奈良・安倍──安倍文殊院の口伝。安倍一族の氏寺
- 茨城・猫島──慶長年間成立の陰陽道書『簠簋抄』の記述。白狐伝説の原点
- 讃岐・香川──昭和五年刊『古今讃岐名勝図絵』の記述。ただし同書自身が「確かではない」と注記
四説の根拠は、社伝・寺の口伝・近世の注釈書・近代の地誌と、それぞれ性格が異なります。本稿はどれが正しいかを断じるのではなく、各説が何を根拠にしているかを一次資料の側から並べることを目的とします。
大阪・阿倍野──社伝『晴明宮御社伝書』と阿倍氏の本拠
もっとも広く知られているのが大阪・阿倍野説です。安倍晴明神社の公式サイトが伝える社伝『晴明宮御社伝書』によれば、晴明公は崇神天皇の御代に四道将軍を務めた大彦命の遠い子孫にあたり、天慶七年(944年)三月、辰の日の辰の刻にこの阿倍野の地で生まれて安倍童子と呼ばれたといいます。
この説の背景には、阿倍野が古代豪族・阿倍氏の本拠地だったという地理的な裏付けがあります。本社の阿倍王子神社は古記録に「阿倍社」と記され、大化の改新で左大臣となった阿倍倉梯麻呂を出した一族の氏神と考えられています。一族の本拠に、一族の出身者の生誕地を伝える社がある、という構図です。
境内には江戸時代に神南辺大道心が寄進した「安倍晴明誕生地」の碑と、『摂津名所図会大成』にも描かれた産湯井の跡が残り、大阪市はこの地を「安倍晴明公生誕伝承地」として顕彰しています。晴明公の子孫・土御門家は、宝暦四年(1754年)の「晴明霊社旧地之次第」でこの社を生誕地として「第二之旧跡」と位置づけました。
奈良・安倍──氏寺の口伝と、土御門家が認めた「安倍家の発祥地」
阿倍野と並んで安倍一族に直結するのが、奈良・桜井の安倍文殊院です。大化元年(645年)に安倍倉梯麻呂が建てた安倍一族の氏寺で、公式サイトによれば、晴明公は倉梯麻呂、遣唐使の安倍仲麻呂、右大臣安倍御主人の系譜に連なり、寺の口伝では延喜二十一年(921年)にこの安倍の地で生まれ、幼少期に天文観測や陰陽思想を学んだと伝わります。境内には晴明堂と「安倍晴明公 天文観測の地」が残ります。
注目すべきは土御門家の位置づけです。宝暦四年の「晴明霊社旧地之次第」は、安倍文殊院を晴明公七箇所旧跡の第一「安倍家の発祥地」とし、大阪の安倍晴明神社を第二の生誕地としています。つまり子孫の側は、一族の発祥地(奈良)と晴明公個人の生誕地(大阪)を区別して、両方を旧跡と認めていました。奈良説と大阪説は対立する説というより、「安倍氏の出自」と「晴明公の出生」という二つの問いへの答えとして並んでいます。
茨城・猫島──『簠簋抄』に明記された、白狐伝説の原点
文献上の記述としてもっとも古い時期に遡れるのが、茨城・筑西市猫島の説です。慶長年間(1596〜1615年)に成立したとされる晴明伝『簠簋抄(ほきしょう)』が、晴明公は常陸国筑波山麓の猫島で生まれたと記します。『簠簋抄』は晴明公に仮託された陰陽道書『簠簋内伝』の注釈書で、筆者・成立年代には諸説がありますが、後の多くの晴明伝の原点となった書物です。
筑西市の公式サイトはこの記述を根拠に、猫島を晴明公出身の地として伝えています。市が宮山ふるさとふれあい公園に設けた立て札によれば、晴明公の母は和泉国信太の森の白狐で、遊女姿で旅に出て猫島に三年間滞在し、安倍仲麻呂の子孫と出逢って童子(晴明)が生まれた。あるとき狐の寝姿を見られた母は「恋しくば 尋ねきて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」の歌を残して去った――。この「恋しくば」の歌は、晴明公の前半生を語る際の枕詞となった有名な一節で、その出生譚の舞台が猫島だという点にこの説の特徴があります。
猫島の晴明橋公園には「安倍晴明生誕の地」の石碑が立ち、晴明公が架けたと伝わる石橋「晴明橋」の伝説も残ります。
讃岐・香川──『古今讃岐名勝図絵』が「確かではない」と注記した説
四つ目が讃岐説です。昭和五年(1930年)刊の『古今讃岐名勝図絵』は、香川郡由佐村岡にあった「安部氏神」が晴明公を祀り、「晴明は横井の人」で天文博士となったと記し、横井には晴明公の宅跡、川東には晴明塚があったと伝えます。同書は川東村の項でも『簪筆録』を引いて、晴明公を香川郡井原郷の人とし、賀茂保憲に天文を学んだとしています。
ただしこの説には、同書自身が付した注記があります。「晴明は讃岐の人というが確かではなく、都の貴臣であって田舎の人ではないだろう」――地誌の編者自身が、地元の伝承として紹介しつつ疑問を留保しているのです。平安期の史料に讃岐と晴明公を結ぶ記述はなく、昭和十三年刊『香川県神社誌』の冠纓神社の項にも晴明公への言及はありません。四説のなかでは、根拠の性格がもっとも慎重に扱われるべき説です。現在は冠纓神社の境内社「安倍晴明神社」にその伝承が受け継がれています。
生年も二説ある──延喜二十一年と天慶七年
生誕地と同様に、生年にも説が分かれます。奈良・安倍文殊院の口伝と、京都の晴明神社をはじめ多くの社が採る延喜二十一年(921年)説と、大阪・安倍晴明神社の社伝『晴明宮御社伝書』が記す天慶七年(944年)説です。
晴明公は寛弘二年(1005年)九月二十六日に亡くなったと伝わり、京都の晴明神社は八十五歳で世を去ったとしています。この享年は延喜二十一年生まれと整合します。一方、天慶七年生まれとすれば享年は六十二歳となります。星詣は各地点ページで、依拠する由緒に従って年を記し、他説がある場合はその旨を添えています。
四説の根拠を並べる
| 説 | 根拠となる資料 | 資料の性格 | 生年 | 土御門家の位置づけ(1754年) |
|---|---|---|---|---|
| 大阪・阿倍野 | 『晴明宮御社伝書』(安倍晴明神社社伝) | 社伝 | 天慶七年(944年) | 第二之旧跡(生誕地) |
| 奈良・安倍 | 安倍文殊院の口伝 | 寺の口伝 | 延喜二十一年(921年) | 第一(安倍家の発祥地) |
| 茨城・猫島 | 『簠簋抄』(慶長年間成立) | 近世の陰陽道書の注釈 | ― | ― |
| 讃岐・香川 | 『古今讃岐名勝図絵』(1930年)、『簪筆録』 | 近代の地誌(編者自身が疑問を留保) | ― | ― |
表が示すとおり、四説は同じ土俵で優劣を競うものではありません。大阪と奈良は安倍一族の系譜に根ざし、子孫の土御門家が旧跡と認めた土地です。猫島は物語としての晴明伝の原点であり、白狐の母の伝説とともに語り継がれた土地です。讃岐は地元の伝承として記録されつつ、記録者自身が留保を付けた土地です。どの土地を訪ねても、そこには晴明公を自らの土地の人として大切にしてきた歴史があります。
母・葛の葉の里、和泉信太
生誕地とは別に、晴明公の母の里として語られるのが、和泉市の信太森葛葉稲荷神社です。安倍保名と白狐・葛の葉姫の子が晴明公と伝わり、境内には白狐が姿を隠したという「千枝の楠」、葛の葉姫に化けたときに姿を映したという「姿見の井戸」が残ります。猫島の立て札が「和泉国信太の森の白狐」と語るのも、この地のことです。
阿倍野で生まれ、あるいは猫島で生まれ、母を訪ねて信太の森へ――。生誕地の四説と母の里は、晴明公の出生譚として一つの物語につながっています。